平成26年 7月18日 ミニ飾り置山

今年の例祭に奉納された、ミニ飾り置山も完成しました。

詭謀一蹴 湊の黎明

弘治二年(1556年)、この頃は奥羽の諸大名に毎年、羽黒山(現・山形県立川町) から武運長久の守護札が配られることが通例であった。 しかし、安東愛季の交易制限に不満を募らせていた出羽国秋田郡豊島郷(現・秋 田市河辺戸島)領主の畠山重村(後の豊島玄蕃)は、 兼ねてから羽後の一大勢力である安東に敵対心を抱いていた羽黒の智賢坊と通じ、 安東に守護札を渡すことを取りやめさせた。 この挑発に憤慨した安東に対し、 これを機と捉えた智賢坊は「安東が羽黒破却を企てている」と流言、出羽三山の 憎兵を悪計に乗せ、五百人余りで海上から襲撃を図る。 安東は男鹿、土崎、能代に城郭を構えて対戦、既に水軍を持っていた安東軍に対 し、海上の戦いに不慣れだった僧兵達は為す術もなく海の藻屑と化す。 この戦いで湊の繁栄の礎を築くこととなる。(湊沖合戦) なお、その後、玄蕃は下刈右京、川尻中務、仙北の小野寺氏、戸沢氏らとともに 反旗を翻し騒動を起こすが安東に鎮定される。 この騒動は二年間続いたと言われる。(湊騒動)

 

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