曳山行事のトピックス
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曳山行事の歴史
曳山行事を紹介した古い資料としては、津村淙庵の機構文「雪のふる道」があります。寛政元年(1789)の曳山行事を紹介したもので「鉦や鼓、笛、三味線の調子にあわせ、四十もの山車が曳かれていて非常ににぎやかであった」と書かれていますので、この頃より前に、土崎神明社の祭が現在の曳山行事のような祭になっていたと思われます。
文化元年(1804)の人見蕉雨の「秋田紀麗」に、明治前後については近藤源八の
「羽陰温故誌」に、また、明治11年(1878)にイギリス人イザベラ・バードが土崎を偶然訪れ、外国人から見た祭の様子を「日本奥地紀行」に記録しています。曳山は、高さが町内の間で競われていました。明治に入ってから七丈(約21メートル)を超えるものが作られました。高さを競った曳山も明治33年(1900)に電線が引かれてから運行上、制限され現在の姿になったと言われています。
曳山の特徴
曳山は『神様が降臨し、宿る所』とされ、毎年組立て、そして終わるとすぐに解体されます。お祭りの間、曳山は神様の御分霊を乗せた神輿とともに氏子区域を練り歩きます。そして、にぎやかに囃子たてることにより、町中にただよう『災いをもたらす怨霊や悪霊』を曳山に封じ込め、祭が終わるとすぐに曳山を解体することにより怨霊や悪霊を町から追い払うのです。曳山行事には見る人を楽しませるため、『曳山を華やかに飾り』、『見る人を圧倒するような迫力のある人形を乗せ』、『大きく高くし』、『歌や踊りを披露する』といった沢山の工夫があります。神賑行事を中心に、観客を楽しませるようにしたものを風流(ふりゅう)と呼びます。風流は、美しい踊りや大規模な行列、作り物などが代表的なものであり、曳山は、「作り物風流」に分類されます。
港ばやし
曳山行事の囃子は、「港ばやし」と呼ばれています。どのように生まれたのか、その経緯は明らかではありませんが、佐竹氏の城下町であった、茨城県常陸太田市には「天神囃子」というよく似ている囃子が伝えられており、もともとあったものと結びついて現在の港ばやしが生まれたと考えられます。
港ばやしには、現在、「寄せ太鼓」「湊ばやし」「あいや節」「湊剣ばやし」「加相ばやし」の五つの曲があり、土崎港ばやし保存会(港和会、娯笑会、しぶき会、若波会)、旭鳳会によって保存・伝承されています。
港ばやしのCDが細川レコード様より発売されております。視聴もできます。
音頭上げ
曳山は、音頭取りと曳子の声の掛け合いによる『音頭上げ』によって動き出します。音頭取りが拍子木を鳴らし、曳子の準備が整ったことを確認した後で、音頭取りと曳子が交互に声を出し合い、音頭上げがはじまります。音頭取りの声を上声、曳子の声を下声と呼びます。
音頭取りの役割には、曳山の進行だけでなく安全に運行するという重要な役割があり、歌が上手なだけではなく、曳山を安全に動かす職人としての能力が必要とされます。
振り棒
曳山はとても大きく重いもので、ハンドルもブレーキもない曳山を振り棒の熟練の技で安全かつ円骨に進むことができます。振り棒は四つの輪に一人ずつの四人一組で曳山を任され、音頭取りとの連携で曳山を安全に運行させています。
踊り
曳山とともに、披露される踊りは祭にとって大切なものです。いつから現在のような形になったのかは、はっきりとはわかりませんが、多くの見物者を楽しませる踊りは、かなり早い時期から披露されていたと考えられます。
踊りは、演芸として披露される踊りと、子供たちや多くの人たちが一緒に踊る輪踊りにわけられます。演芸として披露される踊りとしては「秋田音頭」があります。
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